東 道のきのくに花街道

ariskiga.exblog.jp
ブログトップ

タグ:万葉 ( 4 ) タグの人気記事

2017 熊野古道・万葉ウオークと公演「Musical 有間皇子」ー1

b0326483_23144004.jpg
 11月2日(木)~3日(金・祝)、熊野古道・万葉ウオークと公演「musical 有間皇子」があり、2日は海南市内の古道を歩きました。 午前8時30分、JR海南駅集合。9時スタートです。県内外から万葉ファン23名があつまりました。


b0326483_23145922.jpg
 まずは海南駅前の万葉歌碑の説明から。今日の講師に村瀬憲夫氏(近畿大学名誉教授)、馬場吉久氏(全国万葉協会)、山元晃(紀伊風土記の丘)があたられました。


b0326483_23154966.jpg
  海南駅から古い町並みの雰囲気の残る民家を通りぬけて藤代神社へ。


b0326483_23150861.jpg

藤代神社境内に有間皇子神社があります。



b0326483_23155890.jpg
 有間皇子神社の境内に建てられた万葉歌碑。「藤白の み坂を超ゆと 白たへの わが衣では 濡れにけるかも」
 海南市で生まれた雑賀紀光氏の揮毫によるものです。





b0326483_23173360.jpg
藤代神社をあとにし、熊野古道を菩提房王子へ歩き、国道を横切り松代王子へ向かいます。


b0326483_23174221.jpg
 春日神社へつきました。境内には万葉の草木が生い茂っています。今日はここでランチタイムです。


b0326483_23174826.jpg

 春日神社の長い石段の途中に、大塔宮護良親王の遺跡があります。大晦日に訪れたことから「歳越神社跡」と記載がありました。この時、大野十番頭が宮をお迎えしたそうです。


b0326483_23175310.jpg
 春日から海南高等学校の正門前をとおり、国道370号線を横切り、野上に向かいます。旧野上鉄道の重根駅を過ぎたあたりから右手の民家の並ぶ道に入りました。
 


b0326483_23175746.jpg

  ススキと秋明菊が秋を告げています。

b0326483_23180182.jpg
 狭い路地ですが周辺には秋の花が咲いていました。


b0326483_23181475.jpg
 コウヤボウキの白い花を咲かせています。


b0326483_23181097.jpg
 黄色い花が咲いています。その隣の葉はムカゴですか?

b0326483_23182152.jpg

b0326483_23183243.jpg

 川の向こう右手に海南高原の峯が並んでいます。この道は高野西街道と呼ばれ、空海が歩いた道なのです。

[PR]
by kigaaris | 2017-11-05 00:07 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

有間皇子、ミュージカル公演と熊野・古道万葉ウオーク

 
b0326483_22065553.jpg
 斉明4年(659)、熊野古道の藤白坂で謀反の罪をきせられ殺された有間皇子。19歳の若さであった。当時、三韓と唐(中国)がお互いの国土を広げるための戦いを繰り広げていた。百済を助け、日本を有利にしようとする中大兄皇子と、平和を大切に、民の幸せを考える孝徳天皇(有間皇子の父)との間に意見の相違がうまれた。中大兄は孝徳を失脚させ、巧妙な罠で有間の命を奪ったのである。

 663年3月、中大兄は百済への応援軍2万7千人を動員、新羅との闘いに臨んだ。8月13日、1万4千人の派兵をおこなった。8月27日、「白村江の戦い」が始まったのである。新羅、唐の連合軍、数十万人。日本軍約4万5千人。日本の史上最大の敗戦となった。 

 現代、海外各国では核開発、ミサイルなどのニュースが飛び交い、いつ戦争が起きるのかわからない情勢である。戦争のない平和な時代であってほしいという願いは日本国民すべての人の思いであろう。 有間皇子が生きた時代と現代は似ている気がする。平和のために戦うのは間違っている!と気が付いた有間皇子は戦うのをやめて、自らの命をさしだしたのであった。

 有間皇子の心はその後の熊野古道のオセッタイの心として、日本人の心の源流として伝わっている。自分が苦しくても困った人を助ける、それが自身の本当の幸せなのだと。 

 1360年ほど前の、有間皇子からのメッセージをミュージカル公演をとおして、現代に生きる人たちに伝えたい、平和の大切さを伝えたい、そんな思いで公演とウオークを開催します。 

 10月7日~8日は紀伊万葉ネットワーク主催で「切目・岩代・南部を訪ねて」、11月2日は海南・万葉の会主催で、海南市内の「熊野古道・万葉ウオーク」を、11月3日は、「きのくにの歴史をたずねて」和歌山市内の神社と寺を歩きます。 

 11月3日、県文小ホールで、来年1月21日、田辺市紀南文化会館で公演します。スタッフ、キャスト募集中です。
 【連絡先】℡・fax 073-478-2711 e-mail kiga@silk.plala.or.jp 

 ニュース和歌山さんに記事掲載していただきました。
b0326483_22064331.jpg
b0326483_22071962.jpg

[PR]
by kigaaris | 2017-07-11 22:13 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

和歌山市内の寺町と和歌山城

 7月7日(金)、秋の万葉ウオークの下見で、JR和歌山駅から和歌山城と寺町を歩きました。元信愛高校の馬場吉久先生、紀伊万葉ネットワークの木綿良介さん、そしてKIGAの会員計7名が参加しました。(和歌山城では堀畑さんに案内していただきました。)
 写真は刺田比古神社岡の宮で。若い宮司さんがおられてカメラに入っていただきました。
 大雨予報でしたが、午後は晴れました。最近、晴れが多いです。
b0326483_21514799.jpg
 JR和歌山駅から太田城水攻址を見て、国体道路を横切り、和歌山城へむかって歩きます。大立寺です。大立寺の創建は文禄年間(安土桃山時代)で、大門は室町時代末の和歌山の豪族太田氏の居城があった太田城の大門を移築したそうです。和歌山市指定文化財になっています。
 徳川吉宗の母ぎみが熊野参詣でここまで来たとき、倒れていたのをこの寺の住職さんに助けられ、その後、和歌山城へお勤めすることになり、光貞公の側室となって吉宗が誕生したと伝わっています。
b0326483_21373706.jpg
 右手に和歌山城が見える交差点まできました。左手の岡公園になにやら歴史を感じさせる建物が建っています。長屋門です。実は今日が竣工式なのです!
b0326483_21374222.jpg
 岡口門につきました。城ができた頃はここが城の正門でした。門の上の白い建物は、ここから敵を見張り、射撃するための櫓です。
b0326483_21374858.jpg
 和歌山城です。この建物は3代目です。今は白壁ですが、もとは木の壁だとか。2代目は第二次世界大戦の時、米軍の空襲によって爆撃されましたが、昭和30年代に再建されました。
b0326483_21373134.jpg

 城に上るまで、迷路のように石の城壁が続いています。これは初期の頃の石壁で、比較的なだらかで、小さな石を積み上げた「のづら積」です。
b0326483_21380253.jpg

 文字だか模様だかわからない説明版があります。この城を築いた石工さんたちが、自分たちの納めた石にマークをつけたのだそうです。
b0326483_22345805.jpg
 マークが読み取れます。
b0326483_22350106.jpg
 和歌山城を一回りして、駐車場のある南の門から退出しました。雨がひどくなったので、ちょっと休憩をかねてランチタイムとします。
 ランチのあと、ここで転べば3年しか生きられないという三年坂をとおり、刺田比古 岡の宮神社へむかいました。
b0326483_22350650.jpg
 刺田比古神社の祭神は、道臣命(みちのおみのみこと)と、大伴佐氏比古(おおとものさでひこ)命です。「日本書記」の神武天皇編で、神武が那智の海岸へついた時、丹敷戸畔(にしきとべ)と戦い、毒気をあびて倒れてしまいます。高倉下命(たかくらじのみこと)の夢に天照大神が現れ、フツノミタマという剣を授かり助けに行きます。翌朝目が覚めた神武は中つ国へ向かいますが、山が深くて進むことができないでいる時、八咫烏が現れ中つ国へ導きました。その時の郷の導きの者(国つ神)が大伴氏の祖となったと、日本書記に記載があります。のちに道臣(みののおみ)として神武に仕えることになります。
b0326483_21381793.jpg
 今日は七夕でした。万葉の歌碑がありました。大伴家持の歌です。家持の祖が大伴佐氏比古なのです。 
b0326483_21382970.jpg

 岡公園の西南の地に「父母状の碑」の石碑が建っています。豊臣秀吉が朝鮮を攻めた時、連れてこられた儒学者の李真影と李梅渓親子を、初代藩主徳川頼宣が紀伊国に招き、学問の師と仰ぎました。李親子は韓国の貴族であったそうです。 父母状は頼宣が李梅渓に教えを乞いながら作成し、その後全国の寺子屋の教科書をなりました。「父母に孝行し・・・」と、人が生きる上で大事な法を説いた内容です。
b0326483_21385342.jpg


[PR]
by kigaaris | 2017-07-09 23:11 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

2017・万葉ウオークの下見ー3 有間皇子の墓

 藤白神社の本殿の右隣に権現堂が建っています。
b0326483_21553906.jpg
 藤白王子社は熊野古道の五体王子の一つとして栄え、この権現堂には熊野三山の本地仏三仏と藤代若一王子などが祀られています。これらは平安時代末期の造像で現存する最古のもの。
 熊野本宮の阿弥陀如来坐像、熊野速玉の薬師如来坐像、熊野那智の千手観音坐像と、藤代若一王子の11面観音立像です。11面観音立像が少し見えにくですが。
b0326483_21553404.jpg
 権現堂から右手のほうに「有間皇子神社」があります。境内に建つ万葉歌碑は海南市生まれの雑賀紀光氏の揮毫。

 藤白の み坂を超ゆと 白たへの わが衣手は 濡れにけるかも 

 文武・持統天皇に随行した供の人が詠んだものです。熊野古道を歩くとき、上皇や女院たちは白たへの衣をまとって歩きました。 
b0326483_21554485.jpg

 雑賀紀光氏の歌碑の反対側の打垣内正氏の歌碑は譜面入りです。打垣内正氏は和歌山大学で教鞭をとられ、和歌山市、海南市内で多くの小学校、中学校の校歌を作詞、作曲もしておられます。
b0326483_21554999.jpg

 有間皇子神社から紫川をとおり、藤白峠へ。峠の登り口付近に有間皇子の墓と万葉歌碑が建っています。 
 斉明4年(658)、中大兄皇子の命令により、有間皇子は謀反の罪をきせられこの藤白峠で殺されました。 
 近年、御坊の岩内1号墳が有間皇子の古墳との説が有力ですが、この藤白峠にも墓があります。

 家にあれば けにもる飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉にもる

 この歌はあまりにも有名です。
b0326483_21555324.jpg


[PR]
by kigaaris | 2017-02-02 23:19 | 海南・万葉の会 | Comments(0)