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東 道のきのくに花街道

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熊野古道・紀伊路 海南~宮原へ 藤白峠/筆捨松

 藤白峠は頂上まで約2キロ。紀伊路で初めての急坂です。紀勢線(JR)が開通するまで、この道が官道でした。少々きついです。
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 ようやく10丁石仏。
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 少しなだらかの道もあります。この坂こえたら休憩したいところです。
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 筆捨松につきました。その近くに大きな石があります。硯石です。
 筆捨松は投げ松とも呼ばれ、次のような話が伝わっています。

 平安前期の仁和年間(885~888)、宮廷の絵師の巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野詣の途中、この藤白坂で童子に出会った。話がはずんでお互いに絵を競うこととなり、金岡が松に鶯の絵を描き童子が松に烏の絵を描いた。金岡が手を打つと鶯が飛んでいき、童子が手を打つと烏が飛んでいった。次に童子が手を打つと烏が松にかえってきた。しかし鶯は返ることはなかったので、金岡は悔しがって筆を折り松の根元に投げ捨てたという。以来、その松が筆捨松と呼ばれるようになったそうな。
 童子は熊野権現の化身であった。烏はもちろん熊野の矢田烏かなと。 
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 遺跡「硯石」です。この石は400年ほど前、紀州藩主徳川頼宜公が「筆捨松」の由来にちなんで、大きな自然石に硯石の形を掘らせたと伝わっています。かつては筆捨松の根元に立てられていましたが、昭和58年の大水害で土砂とともに押し流されていたのですが、平成15年10月、藤白坂顕彰会により掘り起こし復元されました。古い時代、藤白炭は質が良くて高級品であったそうです。
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# by kigaaris | 2016-06-06 21:34 | KIGA・熊野古道歩こう会

平群を歩く 長屋王の墓と吉備内親王の墓をたずねて

 6月2日(木)、KIGA歩こう会では平群へぐり)の長屋王の墓と吉備内親王の墓をたずねて歩きました。先月は大雨で中止でしたが、今日はとても良いお天気に恵まれ、暑くもなく風が心地よいウオーク日和となりました。

 JR王寺集合、近鉄に乗り換えて参加者21名が平群駅に集まりました。数人が遅刻でしたがAM9時30分にスタート、高架をくぐり、民家をぬけて長屋王の墓に向かいました。 
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 一昨年、「和歌の浦のあけぼの~聖武天皇と宮子姫~」の公演の中に長屋王が登場しました。長屋王とはどのような人物であったのか・・・以下は表示板から抜粋です。
 
 長屋王は奈良時代初期、壬申の乱に功績にあった高市皇子の長男で、夫人の吉備内親王(きびないしんおう)とともに天武天皇の孫にあたります。皇親政治家で、神亀元年(724)に最高職の左大臣に就任し、聖武天皇を盛り立てて政治をすすめていました。

 神亀6年(729)2月10日、謀反の疑いで館を囲まれ、夫妻と4人の子どもが自殺に追い込まれます。(のちに無実であったことが判明します。)
 8月に天平と年号が変わり、藤原不比等の娘、光明子が皇后となりました。
 
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  お墓は綺麗に整備されています。 
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 『続日本記』によれば、長屋王夫妻の墓は生駒山に葬られたとの記載がありますが、平群の梨本の二つの墓が夫妻の墓という地元の伝承があり、明治の終わりごろから宮内庁がここを長屋王夫妻の墓として整備しているそうです。
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  長屋王の墓から左手(西)に少し歩くと吉備内親王の墓に通じる道がありました。
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 長屋王の墓は直径15m、吉備内親王の墓は直径20mの大きさです。 どちらも同じ円形のお墓です。
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# by kigaaris | 2016-06-04 00:01 | KIGA歴史街道歩こう会

熊野古道・紀伊路 海南~宮原ー3 藤白峠

 藤白峠への道には1丁ごとにお地蔵が並び、18個の丁石地蔵があります。
 元禄の頃(江戸時代)悪い駕籠かきがいて、旅人に金銭をごまかし金銭をまきあげたので、名高の専念寺の全長上人が18個の地蔵仏作って安置しました。怒った駕籠かきはその地蔵仏を全部谷底に落としてしまったのです。4体しか残っていませんでしたが、近年、有志たちの手で復元され、傍らに歌や句が添えられています。 
 2丁目の地蔵仏は徳本上人の歌碑と並んでいます。
 峠への道がしだいに急坂となってきました。
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 三丁石地蔵仏です。 
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 道はどんどん険しくなってきました。
 皆さん、「いま何丁石?}と距離を測りながら歩いています。
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 なにやら華やかなお地蔵さまたちが並んでいます。七丁目の丁石地蔵です。まだ七丁目?
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  峠の途中には景色のよい所があります。景色を眺めながら小休止。どうやら今日の雨予報は外れたようです。

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# by kigaaris | 2016-05-31 20:30 | KIGA・熊野古道歩こう会

熊野古道・紀伊路 海南~宮原へー2 藤白神社と有間皇子

 藤白神社です。藤白若一王子とも言います。本殿の右隣に権現堂があり、熊野の本地仏三尊が祀られています。本殿が県指定文化財。
 斉明天皇が牟婁温湯(むろのゆ・現在の白浜町崎湯温泉)へ行幸の際の創建と伝わっています。持統天皇が行幸のとき、随臣が詠んだ万葉歌が残っています。

 藤白の み坂を超ゆと 白妙の わが衣手は濡れにけるかも 
                          (巻9-1675)

 19歳にして藤白坂で絞首された有間皇子をしのんで詠んだと思われます。
 境内の後鳥羽上皇が書いた熊野懐紙(国宝)を復刻した歌碑には「熊野王子和歌会 建仁元年(1201)10月9日当座」と刻まれています。
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 権現堂の右手の奥に有間皇子神社があります。 
 斉明4年(658)、孝徳天皇の皇子の有間皇子が謀略により、謀反の罪をきせられ藤白坂で殺されたことを偲んで、毎年11月11日に近い日曜日に祭礼を行ってきましたが、平成28年から11月11日に行われるようになりました。
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  民家を抜けて、名高の枕詞となっている紫川をこえて少し歩くと右手に有間皇子の万葉歌碑とお墓があります。御坊の岩内古墳が有間皇子の墓と言われるようになったのはごく最近のことです。それまで有間皇子の墓がなく、この近くに遺跡らしいものがあったので、そこにお墓をつくって祀ったようです。
                         (『海南市史』参照)
 
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 歌碑には勿論、有間皇子の歌が刻まれています。

 家にあれば けに盛る飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉にもる                           
                          (巻2ー142)
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# by kigaaris | 2016-05-31 19:54 | KIGA・熊野古道歩こう会

熊野古道・紀伊路 海南~宮原へ-1 藤白峠

 5月26日(木)KIGA現地講座に11人が参加しました。AM8:15スタート。今回も雨予報です。宮原駅までいけるでしょうか?
 駅の正面を出るとすぐ左手(南)に万葉歌碑があります。
 紀伊の海の 名高の浦に寄する波 音高きかも 逢はぬ子ゆえに   佐々木政一書
と刻まれています。
 JRきのくに線の高架を潜って大鳥居跡をみながら藤白神社へむかいました。
 
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 JRの高架をくぐり、住宅が並ぶ古道をぬけて神社の手前の鈴木邸跡に入りました。義経の弓掛松と書かれた標識が立っています。その向かいに全国の鈴木さんのルーツ、鈴木邸があったのですが、いまは建物が壊れた状態です。何とか再建できると良いのですが・・・。
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 旧鈴木邸庭園は曲水泉(きょくすいせん)とも呼ばれました。平安時代、曲がりくねった水路の石に腰をかけ、上流から流された杯は自分のところへ来るまでに詩歌をつくり、杯をとりあげて酒をのみ次へ流す遊びに使われた庭です。今は池に鯉が泳ぐ綺麗な庭園となっています。
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 かつて、昭和の終わり頃までは鈴木邸のすぐそばに相撲の土俵がありました。平安時代、上皇や供の者たちがここで里相撲を催したのでしょうか? その跡地に海南市ゆかりの万葉歌が5首、記載されています。
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 藤白神社の東の入口です。
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 樹齢千年の大きな楠は子安地蔵と呼ばれ子どもの守り神です。楠、熊、藤の名をつけた子どもは丈夫に育つと言われています。南方熊楠が幼少時代には病弱であったけれど、この神社に詣り、宮司さんから熊楠の名をいただき、健康に育ったそうです。
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# by kigaaris | 2016-05-29 22:49 | KIGA・熊野古道歩こう会