東 道のきのくに花街道

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熊野古道・中辺路 滝尻~高原熊野神社~大阪本王子へー3

  上多和の辺りで集合写真を撮りました。14名全員が映っています。不思議ですね。
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  古道はどこまでも、果てしなく続いています。
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 昔、悪志郎と呼ばれる力持ちの大男がすんでいました。その屋敷跡の表示があります。
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 上多和茶屋跡の説明版があります。この辺りには旧暦の11月23日に月が3枚になって登るという三体月伝説が伝わっています。熊野本宮の大斎原のイチイの木に、三枚の月(鏡?)が降臨したのを見た狩人が小さな祠を建てて祀ったのが、本宮の始まりという話もあります。
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上多和をすぎるとようやく下り坂です。 
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 崩れ石とよばれる石ころの多い道を、すべらないように気をつけながら歩きます。大阪本まであと2km、頑張りましょう。
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 橋が架かっています。ようやく下界へ下りてきました。外気が急に暑く感じはじめました。
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 大阪本王子です。傘塔婆は鎌倉時代のものとの記載があります。大阪本王子から近露の道の駅へ向かいました。予定どおり3時30分着。皆さん、暑い中をよく頑張りました。
 このあと、龍神の「がまの湯温泉」に入り、帰路につきました。今日も1日、無事に歩けたことを熊野の神様に感謝しつつ。
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by kigaaris | 2017-07-22 23:24 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・中辺路 滝尻~高原~大阪本王子へー1

 熊野古道歩こう会では、いよいよ世界遺産登録の中辺路を歩きます。 
 7月20日(木)、午前6時50分、JR和歌山駅東口に13名が集合し、2台の車に分乗し中辺路へ向かいました。有田インターで高速道路を降りて裏街道(?)を走ること約2時間。予定より1時間も早く9時に滝尻に着きました。途中、椿山ダムの近くの道の駅のフクロウの時計が、私たちを迎えてくれています。
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  滝尻の裏手の剣山は手のひらを立てたように急峻な道です。夏場でもあり、今回は少し後方の針地蔵から歩くことにします。まずは熊野五体王子のひとつ、滝尻王子にご挨拶しましょう。
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  滝尻は2つの川が合流し、滝つ瀬をなしていたことが地名の由来です。平安時代、上皇や女院たちはこの川の水をくぐり、垢離をすませてから神社にお参りしたそうです。それぞれに得意な和歌や巫女舞、里相撲などを奉納しました。 
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 古道と林道が交差する地点から熊野古道を歩きました。熊野古道らしい道ですが、かなりの勾配のある道です。
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 針地蔵です。熊野古道には道祖神、さえの神、庚申さん、道陸神などと呼ばれる神々がお地蔵さまと一緒に祀られていますが、針地蔵は珍しいですね。

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 約1時間半、距離にして2,5kmほどですが、きつい登り道です。ようやく平坦な道になってきました。
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 高原につきました。神社の標識のそばに庚申さんが祀られています。台座に3匹の猿の絵が描かれています。庚申(こうしん)とは庚申(かのえさる)の日に、人が寝ている間にサンシという虫が天帝にその人の行状を告げ口に行く日とされ、近隣の人が集まり、一晩中寝ないで起きているという風習です。朝寝坊を戒めた行事だと思われます。
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by kigaaris | 2017-07-22 22:43 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・中辺路 滝尻王子~高原熊野神社~大阪本王子ー2

 高原に着きました。左手に雄大な景観が広がっています。遠くの山々を見渡す景色は、紀伊半島の70%が山林に覆われていることを証明するかのようです。
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  高原熊野神社です。この社が勧進されたのは室町時代だそうです。熊野の勧進聖たちが背中に背負って全国へ伝えたという懸仏が社宝として残されています。
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  神社の後方に巨大な楠が3本、天に向かってそびえたっています。樹齢600年~700年でしょうか?熊野の歴史を今に伝える地です。
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  高原霧の里で早い昼食をすませて、再び歩きはじめます。坂の勾配はすこし緩やかですが、まだまだ登り坂は続いています。暑いですが、平地より気温が低いことを感じさせてくれる古道です。
 道路のあちらこちらに小さな塔が造られています。人はいつの頃から石を積み上げるようになったのだろうか?などど考えながら歩きます。
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 随分歩いた気がします。高原池につきました。途中の民家の跡らしき石垣があります。高原周辺に水呑茶屋があり、旅人が休憩したそうですが、王子はなく、今はこの辺りには人家もありません。
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  大門王子です。かつて、ここに熊野本宮を望む大門があったことが、この王子の由来です。
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  小さな境内ですがきちんと整備されています。
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 こんな所に猫がいます。一人(一匹)でやってきたのでしょうか?かなり人に慣れています。
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by kigaaris | 2017-07-22 22:41 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

有間皇子、ミュージカル公演と熊野・古道万葉ウオーク

 
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 斉明4年(659)、熊野古道の藤白坂で謀反の罪をきせられ殺された有間皇子。19歳の若さであった。当時、三韓と唐(中国)がお互いの国土を広げるための戦いを繰り広げていた。百済を助け、日本を有利にしようとする中大兄皇子と、平和を大切に、民の幸せを考える孝徳天皇(有間皇子の父)との間に意見の相違がうまれた。中大兄は孝徳を失脚させ、巧妙な罠で有間の命を奪ったのである。

 663年3月、中大兄は百済への応援軍2万7千人を動員、新羅との闘いに臨んだ。8月13日、1万4千人の派兵をおこなった。8月27日、「白村江の戦い」が始まったのである。新羅、唐の連合軍、数十万人。日本軍約4万5千人。日本の史上最大の敗戦となった。 

 現代、海外各国では核開発、ミサイルなどのニュースが飛び交い、いつ戦争が起きるのかわからない情勢である。戦争のない平和な時代であってほしいという願いは日本国民すべての人の思いであろう。 有間皇子が生きた時代と現代は似ている気がする。平和のために戦うのは間違っている!と気が付いた有間皇子は戦うのをやめて、自らの命をさしだしたのであった。

 有間皇子の心はその後の熊野古道のオセッタイの心として、日本人の心の源流として伝わっている。自分が苦しくても困った人を助ける、それが自身の本当の幸せなのだと。 

 1360年ほど前の、有間皇子からのメッセージをミュージカル公演をとおして、現代に生きる人たちに伝えたい、平和の大切さを伝えたい、そんな思いで公演とウオークを開催します。 

 10月7日~8日は紀伊万葉ネットワーク主催で「切目・岩代・南部を訪ねて」、11月2日は海南・万葉の会主催で、海南市内の「熊野古道・万葉ウオーク」を、11月3日は、「きのくにの歴史をたずねて」和歌山市内の神社と寺を歩きます。 

 11月3日、県文小ホールで、来年1月21日、田辺市紀南文化会館で公演します。スタッフ、キャスト募集中です。
 【連絡先】℡・fax 073-478-2711 e-mail kiga@silk.plala.or.jp 

 ニュース和歌山さんに記事掲載していただきました。
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by kigaaris | 2017-07-11 22:13 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

和歌山市内の寺町と和歌山城

 7月7日(金)、秋の万葉ウオークの下見で、JR和歌山駅から和歌山城と寺町を歩きました。元信愛高校の馬場吉久先生、紀伊万葉ネットワークの木綿良介さん、そしてKIGAの会員計7名が参加しました。(和歌山城では堀畑さんに案内していただきました。)
 写真は刺田比古神社岡の宮で。若い宮司さんがおられてカメラに入っていただきました。
 大雨予報でしたが、午後は晴れました。最近、晴れが多いです。
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 JR和歌山駅から太田城水攻址を見て、国体道路を横切り、和歌山城へむかって歩きます。大立寺です。大立寺の創建は文禄年間(安土桃山時代)で、大門は室町時代末の和歌山の豪族太田氏の居城があった太田城の大門を移築したそうです。和歌山市指定文化財になっています。
 徳川吉宗の母ぎみが熊野参詣でここまで来たとき、倒れていたのをこの寺の住職さんに助けられ、その後、和歌山城へお勤めすることになり、光貞公の側室となって吉宗が誕生したと伝わっています。
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 右手に和歌山城が見える交差点まできました。左手の岡公園になにやら歴史を感じさせる建物が建っています。長屋門です。実は今日が竣工式なのです!
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 岡口門につきました。城ができた頃はここが城の正門でした。門の上の白い建物は、ここから敵を見張り、射撃するための櫓です。
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 和歌山城です。この建物は3代目です。今は白壁ですが、もとは木の壁だとか。2代目は第二次世界大戦の時、米軍の空襲によって爆撃されましたが、昭和30年代に再建されました。
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 城に上るまで、迷路のように石の城壁が続いています。これは初期の頃の石壁で、比較的なだらかで、小さな石を積み上げた「のづら積」です。
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 文字だか模様だかわからない説明版があります。この城を築いた石工さんたちが、自分たちの納めた石にマークをつけたのだそうです。
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 マークが読み取れます。
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 和歌山城を一回りして、駐車場のある南の門から退出しました。雨がひどくなったので、ちょっと休憩をかねてランチタイムとします。
 ランチのあと、ここで転べば3年しか生きられないという三年坂をとおり、刺田比古 岡の宮神社へむかいました。
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 刺田比古神社の祭神は、道臣命(みちのおみのみこと)と、大伴佐氏比古(おおとものさでひこ)命です。「日本書記」の神武天皇編で、神武が那智の海岸へついた時、丹敷戸畔(にしきとべ)と戦い、毒気をあびて倒れてしまいます。高倉下命(たかくらじのみこと)の夢に天照大神が現れ、フツノミタマという剣を授かり助けに行きます。翌朝目が覚めた神武は中つ国へ向かいますが、山が深くて進むことができないでいる時、八咫烏が現れ中つ国へ導きました。その時の郷の導きの者(国つ神)が大伴氏の祖となったと、日本書記に記載があります。のちに道臣(みののおみ)として神武に仕えることになります。
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 今日は七夕でした。万葉の歌碑がありました。大伴家持の歌です。家持の祖が大伴佐氏比古なのです。 
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 岡公園の西南の地に「父母状の碑」の石碑が建っています。豊臣秀吉が朝鮮を攻めた時、連れてこられた儒学者の李真影と李梅渓親子を、初代藩主徳川頼宣が紀伊国に招き、学問の師と仰ぎました。李親子は韓国の貴族であったそうです。 父母状は頼宣が李梅渓に教えを乞いながら作成し、その後全国の寺子屋の教科書をなりました。「父母に孝行し・・・」と、人が生きる上で大事な法を説いた内容です。
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by kigaaris | 2017-07-09 23:11 | 海南・万葉の会 | Comments(0)