東 道のきのくに花街道

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熊野古道・紀伊路 内原~道成寺~岩内王子へー5

 道成寺から西へ、海岸に向かう。川の手前の細い道をあるき右手に宮子姫の像を見て左折、車道を渡り湯川中学校の前を通って少し歩くと右前方に小さな林があり湯川子安神社につく。
 湯川(河)氏は南北朝時代、甲斐の武田方の武将であった。熊野の道湯川に住んでいたが、この地に進出し亀山城を拠点に活躍した。湯川子安神社はその居城あとで「小松原館」と称したそうだ。
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 この周辺には熊野古道の宿舎として「小松原の御宿」があったと思われる。「御所瀬」とも呼ばれ、この周辺は昔は瀬をなしており、海に近く松原があったことから「小松原王子」とも呼ばれていた。
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 街道筋の小学校の傍に九品寺がある。徳川吉宗の従兄、松平頼勝の終盤の地である。頼勝の供養塔があり大名塚と呼ばれている。
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 日高川に架かる野口新橋を渡り右折、住宅が並ぶ路地を西に向かってあるく。
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 道路わきに植えられたギンモクセイが朱色に輝いていた。
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 岩内王子に着く。天仁元年(1109)の宗忠の『中右記』に、日高川が増水し渡れなくて難渋している女房(女性)たちがいたので馬渡をつかわす、と記載がある。  
 『中右記』に岩内王子の記載がないが、定家は『御幸記』(1201)でイワウチ王子に参っている。
 『紀伊続風土記』には「也久志波」とあり、岩内王子の社地が水没したので、現在の岩内集会所の地に小社を建てたのが「焼芝王子」だという。当時は堤防もなくたびたび流れを変えていたと思われる。 
 15:30 平地ではあるがコンクリートの道は流石に足にこたえる。皆さん、少し疲れが出てきたようだ。「どうしますか?このまま西御坊駅へ向かいますか? 有間皇子の古墳へ行ってもいいですか?」の問いに全員が「Yes」の返事。それでは、と頑張ることにする。
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by kigaaris | 2016-10-31 19:19 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 内原~道成寺~岩内王子へー4

 道成寺で記念撮影をしました。この日の参加者は11名の筈なのに9名?撮影の正木さんをひいても10名の筈なのに・・・。
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 道成寺のご本尊さま、木造千手観音像です。素晴らしいですね。

 道成寺は文武天皇の勅願寺で、天皇の后であり、聖武天皇の母ぎみの宮子姫が文武天皇にお願いして建てられたそうです。
 宮子姫はこの九海士の里に漁師の娘として生まれました。髪長姫ものがたりとして知られていますが、あまり全国的には知られていないようです。

 一昨年、和歌山県ディスティネーションキャンペーン事業として、紀伊万葉NW、海南万葉の会主催で劇団KCMの協力により「和歌の浦のあけぼの~聖武天皇と宮子姫~」を公演しました。
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 石段を下りると土産物店が並んでいます。
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 土産物店の前を通らずに、もとの熊野古道に戻って歩きます。𠮷田八幡神社の山裾に可愛いお地蔵さまが並んでいました。
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 九海士(あま)王子です。『御幸記』に「クワマ」と書かれ、『九十九王子記』(文明5年・1472)には「クアマ」と記載されており、九海士、海士と書かれるのは近世のことです。

【宮子姫のものがたり】
 宮子姫はこの地の漁師の娘として生まれたが、生れつき髪が生えず両親の嘆きはひとしおであった。ある日、母親の渚が海の中から黄金の仏像を拾いあげ一心に祈っていると、不思議なことに娘の髪が生えはじめた。

 やがて娘は髪長姫と呼ばれるほど見事な黒い長い髪の持ち主となった。 一羽の雀がこの髪をくわえて都に運び、時の文武天皇の目に留まった。
 当時は長い髪が美人の条件であった。全国を探し求めて宮子姫を見つけ、時の右大臣藤原不比等の養女となり、文武天皇の后となり聖武天皇を生んだ。

 道成寺は文武天皇の勅願により紀国司の紀道成が建立したが、道成は山から材木を切り出す途中、中津川で濁流にのまれて亡くなった。その犠牲の功により、道成寺と名付けられたそうな。
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by kigaaris | 2016-10-29 00:09 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 内原~道成寺~御坊へー3

 のどかな田園風景の中をさらに南に向かって歩きます。珍しい植物を見つけました。万葉集に記載が見られるオオツヅラフジでしょうか?
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 古道の右(西)の山裾に石段があり𠮷田八幡神社へ上る。本殿脇に幾つかの社が並んでいます。若宮神社として合祀された「愛徳山王子」と「九海士王子」でしょうか? 
 11:30  山の中腹に休憩所とトイレがありここで昼食タイムとします。
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 古道は山裾を西に向かうが、左手(東)の道成寺へ向かう。
 途中、住宅の中に「安珍清姫」で知られる清姫の蛇塚があります。
 安珍を追いかけて、蛇の姿となり日高川を渡って道成寺まできた清姫が、鐘の中に隠れた安珍を見つけ焼き殺したあと、自らも川に飛び込み果てたという。一旦ここに下りたと伝わっています。
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 周辺に住宅が建ち、この塚も見落としがちであるが、かつては田圃が広がっていた。わずかに秋桜の花が秋を告げている。
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  道成寺は蛇塚のすぐ前の山の中に建っています。(というより、蛇塚が道成寺の傍にあるというほうが適当か?)
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by kigaaris | 2016-10-28 23:13 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 内原~道成寺~岩内王子へー2

 川沿いの道を南へ向かうと徳本上人の名号碑が立っています。熊野古道の各所に建ち、すぐにわかる独特の文字ですね。
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 徳本上人の碑の前の道を行かずに、一旦戻って川沿いの道を少し歩き、車道を渡って民家の並ぶ路地へ。路地を抜けると再び古道に出ます。(この辺は道に迷いやすいので要注意)
 さらに歩くと、右手の民家の壁に「愛徳山王子」の小さな標識があります。よくよく注意しないと見落としそうな小さな標識です。
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  竹藪の中の狭い道ですが、ここが古道です。
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 愛徳山王子です。杉や槙に囲まれた自然林の中に、かつては三反二畝(728,2㎢)あったこの王子社も近年は宅地が広がり、往時の雰囲気がなくなってしまいました。 
 愛徳山王子は現・美山村の阿田木神社から勧請されたそうです。(『日高郡誌』)
 『紀伊名称図絵』によれば、延喜22年(922)10月10日、神霊が日高川の支流の寒川の郷の大原の峯に天下り、閃光がさすのを狩人が見た。7年後、阿田木原に出現され、愛徳山権現として祭祀した。31年後の寛治5年8月21日、巾子形原(こじがはら)に遷座された、と記載。
 天仁2年(1110)2月13日、糸尾宮に鎮座。愛徳の名は阿田木の起因している、との記載があります。 
 上皇や女院たちの熊野御幸に際し、皇族がたの寺社や各王子への奉納の品や、食料、菓子、薪その他の生活用品の供給が、院領、国司、沿道諸荘園への課役としての負担が求められたようです。
 『神護寺文書』に久安2年(1141)、鳥羽院領紀伊国真国荘(現・美里町)の御熊野詣雑事支配注文の紹介が見られる。(向陽書房『熊野古道』)
  院政時代、最も盛んであった上皇たちの熊野詣の裏に、それらの課役を調達する村々と、もう一つの熊野道があったと推測できる。
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by kigaaris | 2016-10-27 23:30 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 内原~道成寺~岩内王子へ

 10月20日(木)、AM9:10 KIGAの会員11名がきい内原駅に集合。秋晴れのもと熊野古道紀伊路を歩きました。内原駅の西の道を北にすすみ、次の路地を東へ、山に向かって歩きます。茨木の集落を約2kmほど歩くと高家神社から続く道に合流し右折。ようやく古道に出会います。
 途中に万葉に歌われているクサギが花を咲かせていました。
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 史跡「一里塚跡」の標識です。徳川頼信の時代、和歌山城(京橋)から1里ごとに里石が建てられました。松が植わっている所は一里松と呼ばれています。
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 古道は南に向かいます。この周辺は古墳の多い地です。県指定文化財 史跡「弁財天山古墳」の標識が立っています。
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 右の大池の向こうに古墳があります。
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  林を抜けると田圃が広がる景色に出会います。三叉路を右(南)へ。道路の分岐点に地蔵像が立っています。
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 さらに南へ歩き、宮前橋を右に入ると善童子王子の森があります。藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』「田藤と云々・・」の記載があり、藤原宗忠の『中右記』には『連同寺王子』との記載が見られます。
 『紀伊続風土記』には「善童子王子権現」とあり、土地の人々は出王子とよぶと記載されています。
 この王子社は始め「富安王子」と呼ばれていました。 明治42年、湯川神社に合祀されましたが、昭和の始めに地元青年団がもとの地に小祠をたて祀ったそうです。
 桜の花の咲く神域があり、古道の面影を残す社ですが、近年、訪れる人が少なくなり壇上に朽ちようとしているのが惜しまれます。
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by kigaaris | 2016-10-27 22:32 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)