東 道のきのくに花街道

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カテゴリ:海南・万葉の会( 37 )

熊野古道・万葉ウオークと公演『Musical 有間皇子』-5

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 14時。和歌山県民文化会館・小ホールのロビイに観客が並びはじめました。

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14時30分。いよいよ開幕です。オープニングのダンスが始まりました。



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 第1場は宮廷の采女たちの噂話。



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 中大兄皇子に海南座の中西弘和さん。8月に大怪我で入院しましたが、見事に復帰しました。



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 孝徳天皇に錦戸日出世さん。舞台初出演です。



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 蘇我石川麻呂に田辺の鍋島好行さん。丹治小澤連国襲役と二役です。



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 有間皇子(和佐裕一郎)が父の孝徳天皇のお見舞いに難波宮を訪れます。母の小足媛に池田多美さん。


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 孝徳帝が崩御され、斉明天皇(右・木村規代)が即位しました。額田王(ぬかたのおうきみ・左・菊井佳奈)との場面。


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 難波宮の采女たちの踊り。皆さん二役、三役で登場します。




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 間人皇女(はしひとのひめみこ)に有島華子さん。



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有間皇子の想い人・シララ姫に椿 悠さん。歌って踊ります。



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 有間皇子は中大兄皇子から謀反の疑いがかかるのを避けるために、陽狂(うはりくるい)のふりをしていますが、シララ姫に見破られてしまいました。



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 白浜では有間皇子の恋人のマシララ姫が、有間が帰るのをまっていたと伝わっています。


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 宮殿造営のために地方から駆り出された宮造了(みやつくるよぼろ)達。


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 間人皇女(皇太后)が万葉の歌を歌います。(八釣山に)



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 中臣(藤原)鎌足に今井伸樹さん。(左)



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 蘇我赤兄に西知美さん。長い台詞があり、覚えるのが大変でしたが頑張りました。



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 坂部連薬(さかいべのむらじくすり)に江川望さん。薬役の人のつごうで1週間前に台本を渡されました。台詞を覚えながら役づくりは大変だったようです。



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  采女さん達。


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 黄泉国に旅立った有間皇子。そこで父と母に出会いました。


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 全員登場の場面


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 南野上バレエエクササイズ教室のメンバーが、有間皇子の万葉歌「岩代の」を踊りました。


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 記念撮影しました。出演者の皆さん、スタッフの皆さん、本当にお疲れさまでした。ウオークと観劇にご参加頂いた皆さま、2日間有難うございました。
 『Musical 有間皇子』をとおして、平和の大切さを、観客の皆さまと一緒に考える場を頂いたことに感謝申し上げます。
 これからも和歌山の、そして日本の歴史と万葉の心を次世代へ伝えていきたいと願っています。




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by kigaaris | 2017-11-28 01:09 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

熊野古道・万葉ウオークと公演『Musical 有間皇子』-4

  
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 和歌山城がそびえています。昭和30年代、私が高校生の頃ここは廃墟でしたが、その後再建されました。今では和歌山県の象徴的存在です。


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 城内には大きな木がそびえています。ここは植物の宝庫なのです。


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 万葉時代からの植物も沢山生育しています。和歌山城内は万葉ファンにとって見どころ満載です。


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 石垣に根をはった木。生命力がありますね。


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 城内の紅葉渓(もみじだに)庭園で。


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 紅葉の季節に紅葉谷は、格別な風情があります。


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 今日は朝から良く歩きました。これからMusical「有間皇子」公演を観にいきます。県民文化会館まで、徒歩10分です。紀伊万葉ネットワークの皆さん、KIGAの皆さん、お疲れさまでした。
 good job !!

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by kigaaris | 2017-11-27 23:25 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

2017 熊野古道・万葉ウオークと公演『Musical 有間皇子』-3

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 11月2日の夜は和歌浦の宿『木村屋』で万葉交流会がありました。東京の石橋さん、横浜の金子さん、そして奈良の全国万葉協会から荒川さんが参加され、紀伊万葉ネットワークの村瀬会長、事務局長の木綿さん、理事の馬場さん、山元さん、海南・万葉の会の唐津麻会長などが参加、楽しいひとときを過ごしました。 
 写真は翌朝、6時。木村屋さんから見た和歌浦湾です。名草山に太陽が昇りはじめました。


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 朝、出かける前に記念撮影です。さあ、今日も頑張ります!!



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 午前8時30分受付開始。JR和歌山駅東口。「きのくにの歴史を訪ねてin わかやま」のウオークに参加の人たちが集まってきました。9時きっかりにスタートしました。今日も良いお天気です。
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 戦国時代、紀州には戦国大名がなく、各地の宗教集団が土地を守っていました。ここ太田城はその一つ、日前宮を守っていた太田党がありました。党首は太田左近。秀吉による水攻めにより滅んだ太田党の供養塔が建っています。 
 この戦いによって紀伊国の戦国時代は終わりを告げたのです。雑賀一族と違った道を歩んだ太田党でした。

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  太田城址の碑がある来迎寺で。ガイドはKIGAの平石さんです。


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  和歌山市大田から和歌山城に向かって歩きます。


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 和歌山城が見えてきました。でも、まだお城には入りません。


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 刺田比古神社です。

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 この日は神社の祭礼があったのですが、ここでも宮司さんが説明をして下さいました。


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  次に向かったのは禅林寺です。かつて、ここから葦の原っぱがあり、遠くまで見晴らすことができたそうです。

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 禅林寺の境内にキリシタンのお墓があります。お寺なのになぜ?
 ここは山本さんの担当です。山本さんは何度もこの寺に通って、住職さんからお話をお聞きしたとのことです。


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 禅林寺から寺町に出ました。ここは無量光寺です。首大仏が見えますか?



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 無量光寺の境内に徳本上人の大きな碑がたっています。徳本上人は和歌山県の日高に生まれました。熊野古道沿いに多くの名号石が建っています。



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皆さん、ちょっと疲れたのでしょうか、椅子に座ったり、写真を撮ったりしています。


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 報恩寺の境内はいつも綺麗です。秋景色を満喫しながら徳川家の墓所に向かって少し歩きます。

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 紀州藩主、徳川頼宣夫人の瑶林院と親族の墓です。ここは須川さんがガイドしました。



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 博物館の近くでお昼をいただき、和歌山場内へ。紀伊万葉ネットワークの堀畑さんの担当です。
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by kigaaris | 2017-11-27 22:11 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

2017 熊野古道・万葉ウオークと公演『Musical 有間皇子』-2

 
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 11月2日、大塔宮ゆかりの春日神社から歩くこと約4km、千種神社に着きました。
 この辺りは縄文時代から人が住み、かつて百草(ももくさ)神社と呼ばれていましたが、いつの頃からか千種と呼ばれるようになったそうです。
 境内に大きな杉の木があり県指定天然記念物です。足元に祭られていたお地蔵さまを巻き込んで幹が太くなったとの伝説があります。

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 古代、この地に女王、名草戸畔(なぐさとべ)が住んでいました。『日本書記』によれば、神武天皇の東征のおり、天皇の軍に刃向って殺されてとの記載があります。
 地元の民たちは戸畔の遺骸をひきとり、頭はオコベさん(宇賀部神社)へ、胴はオハラさん(杉尾神社)へ、足はこのアシガミさん(千種神社)へ祀ったと(密かに)伝わっています。 

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 今日は良く歩きました。(私は車で伴走の担当でしたが) 2時過ぎにようやく着きました。阪井の万葉の丘です。ここの20種ほど万葉の草花があります。


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 万葉の丘から国道を渡り、北へ向かいます。杉尾神社鎮座する森の西麓を歩くこと約1,5kmほど、宇賀部神社につきました。
 宇賀部神社は地元ではおこべさんと呼ばれています。名草戸畔の頭を祀るので、頭(こうべ)がおこべさんの名称の由来です。
 一方、紀の川に大きな蛇が流れ着き、胴に光るものがあり捕らえて、頭と胴と足(尾?)に分けて祀ったとの伝承があります。
 この地域は縄文時代から人が住みつき、溝口遺跡や室山遺跡などから当時の生活の様子を知る遺物が発掘されています。新しく鉄の鋳造や農耕技術を持った弥生人がせめてきた時、戦って服従しなかった先住の民たちが、蜘蛛、楠、蛇などと呼ばれてことが折口信夫の『古代研究』に記載されています。近くにクモ池があり、そこで名草戸畔が殺されたとされています。
 古代、和歌山県内には岩出に荒川戸畔(あらかわとべ)、那智海岸に丹敷戸畔(にしきとべ)が住んでいました。丹敷戸畔が住んだ地は大雲取超え、小雲取超えと呼ばれています。やはりクモです。
 荒川戸畔のほうは戸畔に娘のトホツアユメマクハリ姫が神武天皇の妃となり、その娘のトヨスキイリ姫は奈良県の三輪山に天照大神の霊代を祀って鎮座し、その後、紀伊国の名高(海南駅の近く)を経て浜の宮にしばらく鎮座し、全国を回って最後に伊勢神宮に鎮座されたそうです。
 倭王朝が成立するまでの間、各地の豪族たちとの間に国譲りの話合い(戦い?)があったようです。

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 宇賀部神社の境内の一室に小野田寛夫さんが書いた書があります。終戦を知らされず、ルパング島で30年を過ごした小野田さんは海南市藤白に生まれました。しばらく小野田の地に住んでいたのです。

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宮司さんも小野田さんです。小野田寛夫さんのご親戚とのことです。この日は特別にお話をうかがいました。


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by kigaaris | 2017-11-05 20:10 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

2017 熊野古道・万葉ウオークと公演「Musical 有間皇子」ー1

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 11月2日(木)~3日(金・祝)、熊野古道・万葉ウオークと公演「musical 有間皇子」があり、2日は海南市内の古道を歩きました。 午前8時30分、JR海南駅集合。9時スタートです。県内外から万葉ファン23名があつまりました。


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 まずは海南駅前の万葉歌碑の説明から。今日の講師に村瀬憲夫氏(近畿大学名誉教授)、馬場吉久氏(全国万葉協会)、山元晃(紀伊風土記の丘)があたられました。


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  海南駅から古い町並みの雰囲気の残る民家を通りぬけて藤代神社へ。


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藤代神社境内に有間皇子神社があります。



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 有間皇子神社の境内に建てられた万葉歌碑。「藤白の み坂を超ゆと 白たへの わが衣では 濡れにけるかも」
 海南市で生まれた雑賀紀光氏の揮毫によるものです。





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藤代神社をあとにし、熊野古道を菩提房王子へ歩き、国道を横切り松代王子へ向かいます。


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 春日神社へつきました。境内には万葉の草木が生い茂っています。今日はここでランチタイムです。


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 春日神社の長い石段の途中に、大塔宮護良親王の遺跡があります。大晦日に訪れたことから「歳越神社跡」と記載がありました。この時、大野十番頭が宮をお迎えしたそうです。


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 春日から海南高等学校の正門前をとおり、国道370号線を横切り、野上に向かいます。旧野上鉄道の重根駅を過ぎたあたりから右手の民家の並ぶ道に入りました。
 


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  ススキと秋明菊が秋を告げています。

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 狭い路地ですが周辺には秋の花が咲いていました。


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 コウヤボウキの白い花を咲かせています。


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 黄色い花が咲いています。その隣の葉はムカゴですか?

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 川の向こう右手に海南高原の峯が並んでいます。この道は高野西街道と呼ばれ、空海が歩いた道なのです。

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by kigaaris | 2017-11-05 00:07 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

有間皇子、ミュージカル公演と熊野・古道万葉ウオーク

 
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 斉明4年(659)、熊野古道の藤白坂で謀反の罪をきせられ殺された有間皇子。19歳の若さであった。当時、三韓と唐(中国)がお互いの国土を広げるための戦いを繰り広げていた。百済を助け、日本を有利にしようとする中大兄皇子と、平和を大切に、民の幸せを考える孝徳天皇(有間皇子の父)との間に意見の相違がうまれた。中大兄は孝徳を失脚させ、巧妙な罠で有間の命を奪ったのである。

 663年3月、中大兄は百済への応援軍2万7千人を動員、新羅との闘いに臨んだ。8月13日、1万4千人の派兵をおこなった。8月27日、「白村江の戦い」が始まったのである。新羅、唐の連合軍、数十万人。日本軍約4万5千人。日本の史上最大の敗戦となった。 

 現代、海外各国では核開発、ミサイルなどのニュースが飛び交い、いつ戦争が起きるのかわからない情勢である。戦争のない平和な時代であってほしいという願いは日本国民すべての人の思いであろう。 有間皇子が生きた時代と現代は似ている気がする。平和のために戦うのは間違っている!と気が付いた有間皇子は戦うのをやめて、自らの命をさしだしたのであった。

 有間皇子の心はその後の熊野古道のオセッタイの心として、日本人の心の源流として伝わっている。自分が苦しくても困った人を助ける、それが自身の本当の幸せなのだと。 

 1360年ほど前の、有間皇子からのメッセージをミュージカル公演をとおして、現代に生きる人たちに伝えたい、平和の大切さを伝えたい、そんな思いで公演とウオークを開催します。 

 10月7日~8日は紀伊万葉ネットワーク主催で「切目・岩代・南部を訪ねて」、11月2日は海南・万葉の会主催で、海南市内の「熊野古道・万葉ウオーク」を、11月3日は、「きのくにの歴史をたずねて」和歌山市内の神社と寺を歩きます。 

 11月3日、県文小ホールで、来年1月21日、田辺市紀南文化会館で公演します。スタッフ、キャスト募集中です。
 【連絡先】℡・fax 073-478-2711 e-mail kiga@silk.plala.or.jp 

 ニュース和歌山さんに記事掲載していただきました。
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by kigaaris | 2017-07-11 22:13 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

和歌山市内の寺町と和歌山城

 7月7日(金)、秋の万葉ウオークの下見で、JR和歌山駅から和歌山城と寺町を歩きました。元信愛高校の馬場吉久先生、紀伊万葉ネットワークの木綿良介さん、そしてKIGAの会員計7名が参加しました。(和歌山城では堀畑さんに案内していただきました。)
 写真は刺田比古神社岡の宮で。若い宮司さんがおられてカメラに入っていただきました。
 大雨予報でしたが、午後は晴れました。最近、晴れが多いです。
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 JR和歌山駅から太田城水攻址を見て、国体道路を横切り、和歌山城へむかって歩きます。大立寺です。大立寺の創建は文禄年間(安土桃山時代)で、大門は室町時代末の和歌山の豪族太田氏の居城があった太田城の大門を移築したそうです。和歌山市指定文化財になっています。
 徳川吉宗の母ぎみが熊野参詣でここまで来たとき、倒れていたのをこの寺の住職さんに助けられ、その後、和歌山城へお勤めすることになり、光貞公の側室となって吉宗が誕生したと伝わっています。
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 右手に和歌山城が見える交差点まできました。左手の岡公園になにやら歴史を感じさせる建物が建っています。長屋門です。実は今日が竣工式なのです!
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 岡口門につきました。城ができた頃はここが城の正門でした。門の上の白い建物は、ここから敵を見張り、射撃するための櫓です。
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 和歌山城です。この建物は3代目です。今は白壁ですが、もとは木の壁だとか。2代目は第二次世界大戦の時、米軍の空襲によって爆撃されましたが、昭和30年代に再建されました。
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 城に上るまで、迷路のように石の城壁が続いています。これは初期の頃の石壁で、比較的なだらかで、小さな石を積み上げた「のづら積」です。
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 文字だか模様だかわからない説明版があります。この城を築いた石工さんたちが、自分たちの納めた石にマークをつけたのだそうです。
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 マークが読み取れます。
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 和歌山城を一回りして、駐車場のある南の門から退出しました。雨がひどくなったので、ちょっと休憩をかねてランチタイムとします。
 ランチのあと、ここで転べば3年しか生きられないという三年坂をとおり、刺田比古 岡の宮神社へむかいました。
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 刺田比古神社の祭神は、道臣命(みちのおみのみこと)と、大伴佐氏比古(おおとものさでひこ)命です。「日本書記」の神武天皇編で、神武が那智の海岸へついた時、丹敷戸畔(にしきとべ)と戦い、毒気をあびて倒れてしまいます。高倉下命(たかくらじのみこと)の夢に天照大神が現れ、フツノミタマという剣を授かり助けに行きます。翌朝目が覚めた神武は中つ国へ向かいますが、山が深くて進むことができないでいる時、八咫烏が現れ中つ国へ導きました。その時の郷の導きの者(国つ神)が大伴氏の祖となったと、日本書記に記載があります。のちに道臣(みののおみ)として神武に仕えることになります。
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 今日は七夕でした。万葉の歌碑がありました。大伴家持の歌です。家持の祖が大伴佐氏比古なのです。 
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 岡公園の西南の地に「父母状の碑」の石碑が建っています。豊臣秀吉が朝鮮を攻めた時、連れてこられた儒学者の李真影と李梅渓親子を、初代藩主徳川頼宣が紀伊国に招き、学問の師と仰ぎました。李親子は韓国の貴族であったそうです。 父母状は頼宣が李梅渓に教えを乞いながら作成し、その後全国の寺子屋の教科書をなりました。「父母に孝行し・・・」と、人が生きる上で大事な法を説いた内容です。
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by kigaaris | 2017-07-09 23:11 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

和歌山市内の神社と寺を訪ねて 花見をかねてウオーク下見-2

 報恩寺の桜が満開です。
 和歌山城の南、県立博物館の隣に位置する報恩寺は、はじめ要行寺でしたが、寛文5年(1666)紀州藩主徳川頼宜公婦人の瑶林院の菩提を弔うための寺として息子の光貞公が報恩寺と改めました。和歌山市内唯一の武士寺として親しまれてきました。
 瑶林院は加藤清正の長女で、八十姫と呼ばれていたそうです。
 寺から200mほど歩くと紀州藩主の家族のお墓が並んでいます。献花がなくて残念な気持になりました。
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by kigaaris | 2017-04-06 22:26 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

和歌山市の寺と神社を訪ねて 花見をかねて下見ウオークー1

 和歌山市内でも桜が咲きはじめました。
 和歌山城の南にある「夜雨荘(やうそう)」の桜です。今年、秋に予定の「熊野古道・万葉ウオークと公演”有間皇子”」にむけて下見ウオークに行ってきました。
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 戦国時代終盤、豊臣秀吉の三大水攻めの一つといわれる太田城の水攻め址です。来迎寺境内の小山塚には水攻めに敗れ処刑された太田党一族の墓があります。来迎寺のご住職によれば、近年になって初めて追悼されることができるようになったそうです。
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 来迎寺から西へ、和歌山城へ向かいます。父母状の碑がありました。徳川吉宗の時代、熊野古道沿いで、親を殺しても自らの罪を認めない男に、人としてあるべき道を説いたこの書は、韓国の学者、李真栄(りしんえい)と李梅渓(りばいけい)が作ったものです。父母状は江戸時代の寺子屋の教科書となりました。
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by kigaaris | 2017-04-06 22:00 | 海南・万葉の会 | Comments(0)

2017・万葉ウオークの下見ー3 有間皇子の墓

 藤白神社の本殿の右隣に権現堂が建っています。
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 藤白王子社は熊野古道の五体王子の一つとして栄え、この権現堂には熊野三山の本地仏三仏と藤代若一王子などが祀られています。これらは平安時代末期の造像で現存する最古のもの。
 熊野本宮の阿弥陀如来坐像、熊野速玉の薬師如来坐像、熊野那智の千手観音坐像と、藤代若一王子の11面観音立像です。11面観音立像が少し見えにくですが。
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 権現堂から右手のほうに「有間皇子神社」があります。境内に建つ万葉歌碑は海南市生まれの雑賀紀光氏の揮毫。

 藤白の み坂を超ゆと 白たへの わが衣手は 濡れにけるかも 

 文武・持統天皇に随行した供の人が詠んだものです。熊野古道を歩くとき、上皇や女院たちは白たへの衣をまとって歩きました。 
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 雑賀紀光氏の歌碑の反対側の打垣内正氏の歌碑は譜面入りです。打垣内正氏は和歌山大学で教鞭をとられ、和歌山市、海南市内で多くの小学校、中学校の校歌を作詞、作曲もしておられます。
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 有間皇子神社から紫川をとおり、藤白峠へ。峠の登り口付近に有間皇子の墓と万葉歌碑が建っています。 
 斉明4年(658)、中大兄皇子の命令により、有間皇子は謀反の罪をきせられこの藤白峠で殺されました。 
 近年、御坊の岩内1号墳が有間皇子の古墳との説が有力ですが、この藤白峠にも墓があります。

 家にあれば けにもる飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉にもる

 この歌はあまりにも有名です。
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by kigaaris | 2017-02-02 23:19 | 海南・万葉の会 | Comments(0)