東 道のきのくに花街道

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カテゴリ:KIGA・熊野古道歩こう会( 125 )

熊野古道・紀伊路 内原~道成寺~岩内王子へー5

 道成寺から西へ、海岸に向かう。川の手前の細い道をあるき右手に宮子姫の像を見て左折、車道を渡り湯川中学校の前を通って少し歩くと右前方に小さな林があり湯川子安神社につく。
 湯川(河)氏は南北朝時代、甲斐の武田方の武将であった。熊野の道湯川に住んでいたが、この地に進出し亀山城を拠点に活躍した。湯川子安神社はその居城あとで「小松原館」と称したそうだ。
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 この周辺には熊野古道の宿舎として「小松原の御宿」があったと思われる。「御所瀬」とも呼ばれ、この周辺は昔は瀬をなしており、海に近く松原があったことから「小松原王子」とも呼ばれていた。
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 街道筋の小学校の傍に九品寺がある。徳川吉宗の従兄、松平頼勝の終盤の地である。頼勝の供養塔があり大名塚と呼ばれている。
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 日高川に架かる野口新橋を渡り右折、住宅が並ぶ路地を西に向かってあるく。
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 道路わきに植えられたギンモクセイが朱色に輝いていた。
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 岩内王子に着く。天仁元年(1109)の宗忠の『中右記』に、日高川が増水し渡れなくて難渋している女房(女性)たちがいたので馬渡をつかわす、と記載がある。  
 『中右記』に岩内王子の記載がないが、定家は『御幸記』(1201)でイワウチ王子に参っている。
 『紀伊続風土記』には「也久志波」とあり、岩内王子の社地が水没したので、現在の岩内集会所の地に小社を建てたのが「焼芝王子」だという。当時は堤防もなくたびたび流れを変えていたと思われる。 
 15:30 平地ではあるがコンクリートの道は流石に足にこたえる。皆さん、少し疲れが出てきたようだ。「どうしますか?このまま西御坊駅へ向かいますか? 有間皇子の古墳へ行ってもいいですか?」の問いに全員が「Yes」の返事。それでは、と頑張ることにする。
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by kigaaris | 2016-10-31 19:19 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 内原~道成寺~岩内王子へー4

 道成寺で記念撮影をしました。この日の参加者は11名の筈なのに9名?撮影の正木さんをひいても10名の筈なのに・・・。
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 道成寺のご本尊さま、木造千手観音像です。素晴らしいですね。

 道成寺は文武天皇の勅願寺で、天皇の后であり、聖武天皇の母ぎみの宮子姫が文武天皇にお願いして建てられたそうです。
 宮子姫はこの九海士の里に漁師の娘として生まれました。髪長姫ものがたりとして知られていますが、あまり全国的には知られていないようです。

 一昨年、和歌山県ディスティネーションキャンペーン事業として、紀伊万葉NW、海南万葉の会主催で劇団KCMの協力により「和歌の浦のあけぼの~聖武天皇と宮子姫~」を公演しました。
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 石段を下りると土産物店が並んでいます。
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 土産物店の前を通らずに、もとの熊野古道に戻って歩きます。𠮷田八幡神社の山裾に可愛いお地蔵さまが並んでいました。
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 九海士(あま)王子です。『御幸記』に「クワマ」と書かれ、『九十九王子記』(文明5年・1472)には「クアマ」と記載されており、九海士、海士と書かれるのは近世のことです。

【宮子姫のものがたり】
 宮子姫はこの地の漁師の娘として生まれたが、生れつき髪が生えず両親の嘆きはひとしおであった。ある日、母親の渚が海の中から黄金の仏像を拾いあげ一心に祈っていると、不思議なことに娘の髪が生えはじめた。

 やがて娘は髪長姫と呼ばれるほど見事な黒い長い髪の持ち主となった。 一羽の雀がこの髪をくわえて都に運び、時の文武天皇の目に留まった。
 当時は長い髪が美人の条件であった。全国を探し求めて宮子姫を見つけ、時の右大臣藤原不比等の養女となり、文武天皇の后となり聖武天皇を生んだ。

 道成寺は文武天皇の勅願により紀国司の紀道成が建立したが、道成は山から材木を切り出す途中、中津川で濁流にのまれて亡くなった。その犠牲の功により、道成寺と名付けられたそうな。
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by kigaaris | 2016-10-29 00:09 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 内原~道成寺~御坊へー3

 のどかな田園風景の中をさらに南に向かって歩きます。珍しい植物を見つけました。万葉集に記載が見られるオオツヅラフジでしょうか?
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 古道の右(西)の山裾に石段があり𠮷田八幡神社へ上る。本殿脇に幾つかの社が並んでいます。若宮神社として合祀された「愛徳山王子」と「九海士王子」でしょうか? 
 11:30  山の中腹に休憩所とトイレがありここで昼食タイムとします。
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 古道は山裾を西に向かうが、左手(東)の道成寺へ向かう。
 途中、住宅の中に「安珍清姫」で知られる清姫の蛇塚があります。
 安珍を追いかけて、蛇の姿となり日高川を渡って道成寺まできた清姫が、鐘の中に隠れた安珍を見つけ焼き殺したあと、自らも川に飛び込み果てたという。一旦ここに下りたと伝わっています。
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 周辺に住宅が建ち、この塚も見落としがちであるが、かつては田圃が広がっていた。わずかに秋桜の花が秋を告げている。
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  道成寺は蛇塚のすぐ前の山の中に建っています。(というより、蛇塚が道成寺の傍にあるというほうが適当か?)
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by kigaaris | 2016-10-28 23:13 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 内原~道成寺~岩内王子へー2

 川沿いの道を南へ向かうと徳本上人の名号碑が立っています。熊野古道の各所に建ち、すぐにわかる独特の文字ですね。
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 徳本上人の碑の前の道を行かずに、一旦戻って川沿いの道を少し歩き、車道を渡って民家の並ぶ路地へ。路地を抜けると再び古道に出ます。(この辺は道に迷いやすいので要注意)
 さらに歩くと、右手の民家の壁に「愛徳山王子」の小さな標識があります。よくよく注意しないと見落としそうな小さな標識です。
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  竹藪の中の狭い道ですが、ここが古道です。
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 愛徳山王子です。杉や槙に囲まれた自然林の中に、かつては三反二畝(728,2㎢)あったこの王子社も近年は宅地が広がり、往時の雰囲気がなくなってしまいました。 
 愛徳山王子は現・美山村の阿田木神社から勧請されたそうです。(『日高郡誌』)
 『紀伊名称図絵』によれば、延喜22年(922)10月10日、神霊が日高川の支流の寒川の郷の大原の峯に天下り、閃光がさすのを狩人が見た。7年後、阿田木原に出現され、愛徳山権現として祭祀した。31年後の寛治5年8月21日、巾子形原(こじがはら)に遷座された、と記載。
 天仁2年(1110)2月13日、糸尾宮に鎮座。愛徳の名は阿田木の起因している、との記載があります。 
 上皇や女院たちの熊野御幸に際し、皇族がたの寺社や各王子への奉納の品や、食料、菓子、薪その他の生活用品の供給が、院領、国司、沿道諸荘園への課役としての負担が求められたようです。
 『神護寺文書』に久安2年(1141)、鳥羽院領紀伊国真国荘(現・美里町)の御熊野詣雑事支配注文の紹介が見られる。(向陽書房『熊野古道』)
  院政時代、最も盛んであった上皇たちの熊野詣の裏に、それらの課役を調達する村々と、もう一つの熊野道があったと推測できる。
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by kigaaris | 2016-10-27 23:30 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 内原~道成寺~岩内王子へ

 10月20日(木)、AM9:10 KIGAの会員11名がきい内原駅に集合。秋晴れのもと熊野古道紀伊路を歩きました。内原駅の西の道を北にすすみ、次の路地を東へ、山に向かって歩きます。茨木の集落を約2kmほど歩くと高家神社から続く道に合流し右折。ようやく古道に出会います。
 途中に万葉に歌われているクサギが花を咲かせていました。
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 史跡「一里塚跡」の標識です。徳川頼信の時代、和歌山城(京橋)から1里ごとに里石が建てられました。松が植わっている所は一里松と呼ばれています。
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 古道は南に向かいます。この周辺は古墳の多い地です。県指定文化財 史跡「弁財天山古墳」の標識が立っています。
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 右の大池の向こうに古墳があります。
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  林を抜けると田圃が広がる景色に出会います。三叉路を右(南)へ。道路の分岐点に地蔵像が立っています。
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 さらに南へ歩き、宮前橋を右に入ると善童子王子の森があります。藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』「田藤と云々・・」の記載があり、藤原宗忠の『中右記』には『連同寺王子』との記載が見られます。
 『紀伊続風土記』には「善童子王子権現」とあり、土地の人々は出王子とよぶと記載されています。
 この王子社は始め「富安王子」と呼ばれていました。 明治42年、湯川神社に合祀されましたが、昭和の始めに地元青年団がもとの地に小祠をたて祀ったそうです。
 桜の花の咲く神域があり、古道の面影を残す社ですが、近年、訪れる人が少なくなり壇上に朽ちようとしているのが惜しまれます。
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by kigaaris | 2016-10-27 22:32 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 鹿が瀬峠を越えて内原へー2

 大峠で記念スナップー①
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 記念スナップー② どこが違うでしょうか?・・・撮影者が変わりました。①は正木さんが撮り、②は東が撮りました。
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 大峠の手前の「法華の壇」です。真夜中に骸骨が経をとなえていた話が伝わっています。広川町の養源寺の飛地です。
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  大きな木ですね。
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 古道らしい石畳道が続いています。
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by kigaaris | 2016-09-15 22:53 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 鹿が瀬峠を越えて内原へ

 9月15日(木)熊野古道の紀伊路を、井関から鹿が瀬峠を越えて紀伊内原駅まで歩きました。
 前日からの雨予報でしたが、たいした雨もふらず、暑くもなく歩くことができました。 
 熊野古道歩こう会は8月はお休みだったので、久しぶりに歩いた気がします。
 本日の徒歩数25,694歩、距離にして16,2Kmでした。
 8時40分、湯浅駅に集合、タクシーに分乗し井関バス停から歩きはじめました。 

 河瀬橋を渡ったところ、マンジュシャゲが咲き秋の景色です。
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 河瀬王子はかつて修験道者たちが使った思われる磐場が残っています。
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 馬留王子の標識がありました。旅人がここで馬をおりて勾配のきつい山道に入ったようです。鹿が瀬山の東西2か所に馬留王子があります。
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 なんだか良い香りがしてきました。路上に花びらが・・・。
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 葛の花です。
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 葛はつた性ですが、大きな木の上に覆いかぶさっています。この周辺には葛が多いようです。
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by kigaaris | 2016-09-15 22:39 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 紀伊宮原~湯浅へー2

 一里松をあとに、糸我稲荷神社を見て峠への道を上ります。雨のあとの雲雀山コースは滑りやすく危険なのでまたの機会にし、糸我峠への道を歩きました。曇り空でそれほど暑くもなく、さわやかな風があり、心地良く歩くことが出来ました。 
 峠の頂上で記念写真です。撮影者の正木さんは入っていません。
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 糸我峠の少し手前、有田の街並みの景色が広がっていました。
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 峠を下ると逆川(さかがわ)神社です。境内に逆川王子の石碑があります。この近くの川が海に向かわずに、逆さに流れていることがこの名の由来です。お弁当は逆川神社の少し手前の、吉川憩いの家で。トイレが使えて便利です。
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 方津峠でお地蔵さまの手を合わせて、すぐ右手の細い道へ入ります。これが熊野古道です。峠を下り、元郡民体育館(現スポーツセンター)へと歩くと、体育館の敷地内に一里松の石碑があります。和歌山城から6里だそうです。今は松が枯れたので、石碑も内側をむいていますが。
 古道は湯浅町内を流れる山田川にでました。午後1時半。予定より早く歩いています。 
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 「北栄橋」を渡ると醤油の香りがプーンと漂ってきました。ここは日本の醤油発生の地です。いまも手作り醤油を生産している「角長(かどちょう)」さんへ。醤油資料館と醤油蔵を見せていただきました。かつて、醤油は山田川の河口から海路で日本国中へと、その販路を広げていきました。
 湯浅の町並は「せいろミュージアム」と呼ばれ、各家々が軒下にせいろを飾り、その中に和歌や花、人形など、和のアレンジをしています。
 角長さんから街並みを見ながら古道に戻ります。
 しばらく歩くと右手に立石の道標が立っています。「きみゐでら」と刻まれています。右面には「すく くまのみち」と。良く見ると上のほうに手の形があり北を示しています。北栄橋をさしているのです。天保の時代、日本全国が飢饉になりました。餓死人が多く出て、土地を持つ人は自分の土地に埋葬されますが、土地を持たない貧しい人は橋の下に埋められたそうです。北栄橋にはそんな歴史の秘話が伝わっています。(松原右樹氏より)
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 熊野古道は湯浅駅前をとおり広川への橋を渡り、川に沿って国道42号線へ向かっています。今日は近道をしてJRの高架下をくぐり、明恵上人ゆかりの勝楽寺への道を歩きました。勝楽寺には重要文化財に仏像が安置されています。
 午後3時。かなり暑くなってきて、雨傘が日傘になりました。
 勝楽寺の後方に「紀伊国屋文左衛門船出の碑」が建っていました。ここから国道42号線に出て、数百メートル歩くと久米崎王子です。古道はこのあと、井関王子、河瀬王子と続いていますが、今回は久米崎王子までとし、湯浅駅へ戻ることにしました。
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by kigaaris | 2016-06-25 21:50 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 紀伊宮原~湯浅へー1

 6月23日(木)昨夜から大雨が続いています。警報が出たらおやすみ、となっているKIGAの歩こう会ですが・・・。警報がでないのでとりあえず宮原駅へ。集合時間の午前8時45分ごろには雨が小やみになってきました。集まったのは7名です。正木さんが少し遅れて、得生寺で合流し8名となりました。雨にもまげず・・・皆さん。本当に熱心です。

 有田川の渡し場跡の碑です。古い時代には橋もなく堤防もなく、熊野詣での旅人は雨が降り続いたら幾日も川岸で待ち続けました。
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 長い橋を渡って川岸を上流へ数百メートル歩き、国道42号線を横切って路地を入り、山手に向かって歩くと、住宅の並ぶ路地の右手に得生寺の大きな標識が立っています。
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 徳生寺は中将姫の隠れ住んだ寺として知られています。 
 中将姫は右大臣の藤原豊成の娘として生まれました。幼い頃に実母を亡くし継母の照代の前に育てられます。琴の名手で、ある時、聖武天皇の前で琴を弾いたとき、その素晴らしい音色に聖武天皇から「中将姫」の名を賜りました。けれども照代の前は不覚をとります。
 美しく才能あふれる中将姫を、継母は次第に憎むようになりました。やがて弟が生まれました。継母は中将姫を殺そうと毒饅頭を中将姫の部屋においたのですが、それを弟が食べ、亡くなってしまったのです。
 継母は家臣の伊東春時に中将姫を殺すように命じました。この雲雀山まできた時、一心に経を読む中将姫の姿を見た春時は、刀を捨てて中将姫を守ろうと決心します。名を得生とし(妻は妙生)草庵を結び安養庵と呼びました。
 その後、中将姫は父と再会し、奈良の当麻寺へ尼僧として入ります。29歳の時、25菩薩に迎えられ昇天します。
 室町時代に西山浄土宗の明秀光雲上人が紀州に入り、庵は改宗され雲雀山徳生寺と呼ばれるようになりました。
 毎年、5月14日に「中将姫会式」があり、地元の子ども達が25菩薩の姿となり、開山堂から本堂へ練供養が行われています。25菩薩練供養は和歌山県無形民俗文化財に指定。
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 「足代(あて)過ぎて 糸鹿の山の桜花 散らずあらなむ かえり来るまで」(万葉集巻7 詠み人知らず) 
 大同元年(806)在田郡と改められるまで、この地は安諦(足代、河堤)とよばれていました。あさがほ(現在のききょう)が綺麗です。
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 得生寺の境内の隣の「一里松」です。藩主徳川頼宣の時代、和歌山城を起点に一里ごとに松が植えられました。現代の松は3代目とか。
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by kigaaris | 2016-06-23 23:55 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)

熊野古道・紀伊路 海南~宮原へー5 藤白峠の頂上へ

 18丁石仏を過ぎると藤白峠の頂上です。県内四大宝きょ印塔(ほうきょいんとう)のひとつです。地蔵峯寺の境内にあったので、寺と同じ時代の15世紀前半に建てられたと考えられます。(説明板より)
 宝きょ印塔は法きょ印陀羅尼経のお経をおさめることにより、もろもろの功徳が得られると考えられていました。高さ12,5尺(3,788m)あります。 
 地元の伝説では大野城の城主の山名義理がこの地から由良の興国寺に逃れた時、ここに建てたという説もありますが確証はありません。
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 地蔵峯寺に着きました。
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 地蔵峯寺の中の大きなお地蔵さまは緑泥片岩の一枚石を削って作られています。光背に作者の名があり「勧進聖沙門心静(ごんのひじりさもんしんじょう) 元享(げんこう)3年(1322) 大工薩摩守権行径(さつまのかみごんゆきつね)」と刻まれています。一枚岩で彫った石仏としては最大級のものだそうです。先に仏像が作られ、お堂は後の時代に建てられました。
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 地蔵峯寺の右側から後方にまわると御所の芝です。後鳥羽上皇たちもこの景色を眺めたのでしょうか。昭和30年頃までは美しい海岸線でしたが、今はびっしりと建物が立ち並んでいます。中央の名草山は今も昔も変わらない風貌を保っています。
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  足元に珍しい万葉時代にシダが生息していました。
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by kigaaris | 2016-06-06 23:16 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)