東 道のきのくに花街道

ariskiga.exblog.jp
ブログトップ

2017 熊野古道・万葉ウオークと公演『Musical 有間皇子』-2

 
b0326483_23190990.jpg
 11月2日、大塔宮ゆかりの春日神社から歩くこと約4km、千種神社に着きました。
 この辺りは縄文時代から人が住み、かつて百草(ももくさ)神社と呼ばれていましたが、いつの頃からか千種と呼ばれるようになったそうです。
 境内に大きな杉の木があり県指定天然記念物です。足元に祭られていたお地蔵さまを巻き込んで幹が太くなったとの伝説があります。

b0326483_23192183.jpg
 古代、この地に女王、名草戸畔(なぐさとべ)が住んでいました。『日本書記』によれば、神武天皇の東征のおり、天皇の軍に刃向って殺されてとの記載があります。
 地元の民たちは戸畔の遺骸をひきとり、頭はオコベさん(宇賀部神社)へ、胴はオハラさん(杉尾神社)へ、足はこのアシガミさん(千種神社)へ祀ったと(密かに)伝わっています。 

b0326483_23204318.jpg
 今日は良く歩きました。(私は車で伴走の担当でしたが) 2時過ぎにようやく着きました。阪井の万葉の丘です。ここの20種ほど万葉の草花があります。


b0326483_23192674.jpg
 
 万葉の丘から国道を渡り、北へ向かいます。杉尾神社鎮座する森の西麓を歩くこと約1,5kmほど、宇賀部神社につきました。
 宇賀部神社は地元ではおこべさんと呼ばれています。名草戸畔の頭を祀るので、頭(こうべ)がおこべさんの名称の由来です。
 一方、紀の川に大きな蛇が流れ着き、胴に光るものがあり捕らえて、頭と胴と足(尾?)に分けて祀ったとの伝承があります。
 この地域は縄文時代から人が住みつき、溝口遺跡や室山遺跡などから当時の生活の様子を知る遺物が発掘されています。新しく鉄の鋳造や農耕技術を持った弥生人がせめてきた時、戦って服従しなかった先住の民たちが、蜘蛛、楠、蛇などと呼ばれてことが折口信夫の『古代研究』に記載されています。近くにクモ池があり、そこで名草戸畔が殺されたとされています。
 古代、和歌山県内には岩出に荒川戸畔(あらかわとべ)、那智海岸に丹敷戸畔(にしきとべ)が住んでいました。丹敷戸畔が住んだ地は大雲取超え、小雲取超えと呼ばれています。やはりクモです。
 荒川戸畔のほうは戸畔に娘のトホツアユメマクハリ姫が神武天皇の妃となり、その娘のトヨスキイリ姫は奈良県の三輪山に天照大神の霊代を祀って鎮座し、その後、紀伊国の名高(海南駅の近く)を経て浜の宮にしばらく鎮座し、全国を回って最後に伊勢神宮に鎮座されたそうです。
 倭王朝が成立するまでの間、各地の豪族たちとの間に国譲りの話合い(戦い?)があったようです。

b0326483_23193253.jpg
 宇賀部神社の境内の一室に小野田寛夫さんが書いた書があります。終戦を知らされず、ルパング島で30年を過ごした小野田さんは海南市藤白に生まれました。しばらく小野田の地に住んでいたのです。

b0326483_23205991.jpg

宮司さんも小野田さんです。小野田寛夫さんのご親戚とのことです。この日は特別にお話をうかがいました。


[PR]
by kigaaris | 2017-11-05 20:10 | 海南・万葉の会 | Comments(0)