東 道のきのくに花街道

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熊野古道・紀伊路 紀伊宮原~湯浅へー1

 6月23日(木)昨夜から大雨が続いています。警報が出たらおやすみ、となっているKIGAの歩こう会ですが・・・。警報がでないのでとりあえず宮原駅へ。集合時間の午前8時45分ごろには雨が小やみになってきました。集まったのは7名です。正木さんが少し遅れて、得生寺で合流し8名となりました。雨にもまげず・・・皆さん。本当に熱心です。

 有田川の渡し場跡の碑です。古い時代には橋もなく堤防もなく、熊野詣での旅人は雨が降り続いたら幾日も川岸で待ち続けました。
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 長い橋を渡って川岸を上流へ数百メートル歩き、国道42号線を横切って路地を入り、山手に向かって歩くと、住宅の並ぶ路地の右手に得生寺の大きな標識が立っています。
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 徳生寺は中将姫の隠れ住んだ寺として知られています。 
 中将姫は右大臣の藤原豊成の娘として生まれました。幼い頃に実母を亡くし継母の照代の前に育てられます。琴の名手で、ある時、聖武天皇の前で琴を弾いたとき、その素晴らしい音色に聖武天皇から「中将姫」の名を賜りました。けれども照代の前は不覚をとります。
 美しく才能あふれる中将姫を、継母は次第に憎むようになりました。やがて弟が生まれました。継母は中将姫を殺そうと毒饅頭を中将姫の部屋においたのですが、それを弟が食べ、亡くなってしまったのです。
 継母は家臣の伊東春時に中将姫を殺すように命じました。この雲雀山まできた時、一心に経を読む中将姫の姿を見た春時は、刀を捨てて中将姫を守ろうと決心します。名を得生とし(妻は妙生)草庵を結び安養庵と呼びました。
 その後、中将姫は父と再会し、奈良の当麻寺へ尼僧として入ります。29歳の時、25菩薩に迎えられ昇天します。
 室町時代に西山浄土宗の明秀光雲上人が紀州に入り、庵は改宗され雲雀山徳生寺と呼ばれるようになりました。
 毎年、5月14日に「中将姫会式」があり、地元の子ども達が25菩薩の姿となり、開山堂から本堂へ練供養が行われています。25菩薩練供養は和歌山県無形民俗文化財に指定。
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 「足代(あて)過ぎて 糸鹿の山の桜花 散らずあらなむ かえり来るまで」(万葉集巻7 詠み人知らず) 
 大同元年(806)在田郡と改められるまで、この地は安諦(足代、河堤)とよばれていました。あさがほ(現在のききょう)が綺麗です。
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 得生寺の境内の隣の「一里松」です。藩主徳川頼宣の時代、和歌山城を起点に一里ごとに松が植えられました。現代の松は3代目とか。
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by kigaaris | 2016-06-23 23:55 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)