東 道のきのくに花街道

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熊野古道・紀伊路 伊太祈曽~藤白へー4

 古道は正面の狭い路地に入ります。突き当りを右手に進み、高速道路をくぐると目の前に武内宿祢(たけのうちすくね・建内とも)神社が見えます。ツツジの花が満開です。
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 田んぼの中の道を通って神社へ。正しくは安原(やすはら)八幡神社別宮です。  
 武内宿祢は紀伊国造(きいのくにのみやつこ=知事)の娘影姫と孝元天皇との間に生まれたと伝わっています。伝説の人とされ、『古事記』では成務、仲哀、仁徳、仁徳の4代天皇に仕え、『日本書記』では景行、成務、仲哀、神功、応神、仁徳の6朝にかけて大臣として仕えたとの記載があります。書記の年代によれば300歳もの長寿となります。

 その実在については諸説ありますが、7世紀になって創られたようです。
 岩波文庫『日本書記』によれば、朝廷に近侍する人という意味が有力で、蘇我氏または中臣鎌足との関係と関わりとの説があり、その子が波多八代宿祢ほか葛城、巨勢、平群、木氏などとなった。蘇我氏の勢力伸張の結果作為された(津田左右吉)。それが孝元天皇に系譜づけられたのはおそらく7世紀後半のことと考えられると、補注に記載があります。

 和歌山的発想ではありますが、古代は名草国が栄えていて、倭王朝が成立の陰には紀伊国や各地の豪族が治める国との政治的な関わりが重要課題であったため、それらの仲裁的な役割としての人物が必要であり、それが武内宿祢であったと考えられます。後の蘇我、中臣、藤原氏へと継承していった可能性は否定できません。忌部一族の本拠地が和歌山市の鳴神社周辺であったことも含めて。
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 武内宿祢の産湯の井戸。

 
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  標識によれば現代の熊野道は真ん中の道を進みますが、私たちは古道をさがして薬勝寺の旧道を進みます。
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 道路の左手にこんもりした森があります。ここが奈久智王子とは松原右樹先生の説です。かつてこの森の麓に多くの石仏が散在していました。入ってみることにします。
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by kigaaris | 2016-05-03 16:51 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)