東 道のきのくに花街道

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熊野古道・紀伊路 川端王子~伊太祁曾神社までー2

 熊野古道は南へ向かって歩く道です。逆に進むことはありません。太陽に向かうのは花や草だけでなく人間にとっても本能なのでしょうね。和佐小学校に続く道です。この周辺の景色はあまり変わっていなくて嬉しいです。この時、桜はまだ1輪、2輪でした。
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  高積山の麓に歓喜寺があるので行ってみました。そこで徳本上人の碑に出会いました。
  運よく住職さんがおられ、歓喜寺の歴史資料をいただきました。以下は歓喜寺の歴史から。 

  1240年、地頭職であった大伴家(和佐家)の菩提寺で薬徳寺と称していた。開基は玉峯和尚であったが別当職の沙弥恵性(しゃみけいせい)に譲った。恵性は北条高塒の弟。その後、戦いが始まり高塒は逃走し行方知れずとなった。

  1248年、京都の蓮光寺を建立の恵鏡(えきょう)上人が延暦寺の末寺とした。  
  1264年~1250年、後鳥羽院の宮女(姫)の大宮局(おおみやのつぼね)が法王菩提のために護摩堂を薬師寺内に建立し、所領の下村・南村(和佐庄の下和佐・三田村)を寄進した。堂塔伽藍が出来上がり、法然怠らずで大宮局の喜びはひとかたではなかった。このことから寺号を歓喜寺と改め、院政を賜わり祈願所とされた。 
  歓喜寺はもと真言宗であったが、この時禅宗となった。
  ここは熊野参詣の接待所であった。紀の川の布施屋も熊野古道の接待所として設置された。

  天正13年(1585)兵火により堂塔伽藍を焼失する。僧兵10数名戦士か?田地没収され、和佐家も全焼するが 古文書は無事に残り現代にその歴史を伝えている。

  天保10年(1839) 『紀伊続風土記』によれば「歓喜寺 井谷山 東西69間 南北66間(約4500坪)をもち、本堂、僧坊、庫裏、鐘楼、倉庫、鎮守社、四脚門」の記載があり、かつては大きな寺であったことがうかがわれる。
 

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 高積山の下の宮につきました。『日本書記』の神話遍に登場するスサノオの子どものイタケルノミコトの妹のツマツヒメを主祭神として祀っています。4月10日がお祭りです。
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 ふたたび古道に戻ります。重要文化財指定の「旧中筋家住宅」。予約すれば見学できます。
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by kigaaris | 2016-04-07 17:20 | KIGA・熊野古道歩こう会 | Comments(0)