東 道のきのくに花街道

ariskiga.exblog.jp
ブログトップ

明日香・板葺宮跡から大津皇子の磐余池へ

 全国万葉協会総会のあとは午後から万葉ハイクです。ここは飛鳥板葺宮跡。皇極、斉明天皇の時代、宮殿が建っていました。
b0326483_23493123.jpg
 乙巳(いつし)の変と(大化の改新とも)呼ばれるクーデターがあり、蘇我入鹿が殺害されて後、皇極の弟の孝徳天皇(有間皇子の父)が即位し、都が難波に移されましたが、中大兄皇子(天武天皇)は家臣や皇族のすべてをつれて、明日香に戻ります。孝徳天皇は失意のあまり、心の病となり亡くなります。有間皇子の悲劇はここから始まったのです。
 板葺宮ではたびたび火災が発生し、宮殿は瓦葺(かわらぶき)宮に移りました。
b0326483_23493415.jpg
 犬養孝氏真筆の万葉の歌が刻まれた歌碑が近くにありました。原文の文字を探すのは結構大変なので現代文字で。「采女の袖吹きかえす明日香風 都を遠みいたづらに吹く」(巻1-51)志貴皇子(しきのみこ)作。志貴皇子は天智天皇の息子で光仁天皇の父。
 この日、私は市川さんと二人で和歌山からマイカーで行ったのですが、車で移動することになり、しかも古道は狭い道が多く途中でコースの道からそれてしまい、全コースを見学できない結果となりました。本当に残念。
b0326483_23494263.jpg
 御厨子(みくり)観音の近く。この辺りは磐余の池があったという。大津皇子の歌碑がひっそりと建つ。
b0326483_23494503.jpg
 「ももつたふ磐余の池になく鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ」(巻き3-416) 大津皇子。意味は「磐余の池に鳴く鴨を見ることも今日限りで、私は雲の彼方に去ってしまうのであろうか。」686年、大津皇子は謀反の疑いをかけられ自害、二上山に葬られる。有間皇子、大津皇子ともに悲劇の親王である。
by kigaaris | 2014-06-02 21:40 | 海南・万葉の会 | Comments(0)